自由を手にする寂しさ【オーストラリアの国境再開は来年末?】

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こんにちは、あき(@akihito_kobe)です。
オーストラリアのシドニーより、お届けしております。
本日は、『自由を手にする寂しさ』についてお話していこうと思います。
というのも、先日【オーストラリアの国境再開が2021年末になるかも知れない】というニュースが出ました。
こんなにも長く、家族や友人と会えない期間が続くとは思っていませんでした。
ということで改めて、僕が海外で求める自由やその代償について考えてみました。
後半で、哲学者エーリッヒ・フロムの言葉を借りつつ、『自由になりたい』と思っている全ての方々にお読みいただければ嬉しいです😌
自由を手にする寂しさ【オーストラリアの国境再開は来年末?】
3月末に国境が封鎖されて以降、制限解除がいつになるのかという話題が定期的にあがります。
最初は今年中に再開するんじゃないかと言われ、今年末になるんじゃないか、来年頭になるんじゃないかと言われ続け。
この間のニュースでは、『2021年末になるんじゃないか』というのが流れました。
現に、オーストラリアを代表するカンタス航空は、2021年7月末までの国際便の運休を発表しました。
僕が今年の7月に、一時帰国をしようとしてチケットを予約していた航空会社もカンタス航空です。
(航空代はバウチャーという形で、次回以降のフライト代に補填できるようになっています。)

1年に1度くらいは、家族や友人に会いたい
ここからは完全に僕個人のお話ですが、1年に1度くらいは、家族や日本の友人に会いたいなぁと思ってしまいます。
前回の帰国は、去年の8月でした。もともと7月に帰国しようとしていたのもキャンセルとなり、国境再開が来年末となると、丸2年以上は家族に会えない期間が続きます。
(ちなみに7月の帰国では、大好きな斉藤和義さんのライブが関西で開催予定だったので、これに合わせての帰国でもありました。当然このライブもキャンセルとなってしまいましたが😭)
シドニーに遊びにきたい、と言ってくれている友人もいます。
彼らにシドニーを案内して、僕の生活圏を見せる、といったようなことも叶わなくなりそうですね。

Social Brewというカフェです。最高でした。
自由への代償
ここでテーマとなるのが『自由』です。
僕がいくら寂しい思いをしようと、これは数ある物事の中から僕が自分自身で選択したことなので、仕方がありません。
『嫌なら完全帰国すればいい』というだけの話になってしまいます。
僕は自由を求めて海外にわたり、更なる自由を求めてプログラミング学習をはじめ、今は海外で起業する、といったステージに立っています。
特にプログラミング学習において言えば、僕は現在どこにいても稼げるような地盤が整いつつある状況です。
いわゆる、ノマドエンジニアみたいな感じですね。
(とはいえ、ディスプレイは絶対2個欲しいとか、このマウスが使いたいとかは結構あります。なので、ミニマリストみたいにバックパッカーにPC1台入れて、旅をしながら稼ぐ、というのには向いていないような気がします。笑)

僕が今現在感じている、国境再開が遅れることへの寂しさというのは、必ず『自由』につきまとうものだと思っています。自由の副作用、とでも言いましょうか。
たまたまその副作用が、2020年、世界的パンデミックという形で姿を現しているだけですね。
最近は少しずつ回復してきましたとはいえ、とくにロックダウン以降、自宅にこもりっきりで勉強・作業に没頭する日々に、強烈な孤独を感じる瞬間があります。
徐々に『自由』の正体が見えてきたのかな、と思うと同時に、誰も責任を取ってくれない自己選択や寂しさが、自由への代償なのかな、と感じます。

エーリッヒ・フロム【自由からの逃走】
自由について考える際、ナチスドイツのことを思い返してみると、非常に深い考察が得られます。
フロムという社会心理学者が遺したものに、『自由からの逃走』というのがあります。
人は自由を希求し続けているにも関わらず、その自由から逃走してしまう。どういうことなのでしょうか。
16世紀から18世紀にかけて、ヨーロッパではルネサンスや宗教改革を経て、市民は封建制度への隷属から解放されました。数多の犠牲者を出し、大きな対価を払って自由を手にしたのです。
にも関わらず、あれほどまでに犠牲を払って手に入れた自由を投げ捨て、人々はファシズムと言う全体主義に再び傾倒していきました。
ここで、フロムの言葉を引用します。
自由であることには、耐えがたい孤独と痛烈な責任を伴う。これらに耐えつつなお、真の人間性の発露と言えるような自由を希求し続けることによって、初めて人類にとって望ましい社会は生まれるはずだ。
しかし、自由がその代償として必然的に生み出す、刺すような孤独と責任の重さに多くの人々は疲れ果て、高価な代償を払って手に入れた『自由』を投げ捨ててナチズムの全体主義に傾斜することを選んだ。
出典①:エーリッヒ・フロム『自由からの逃走』
出典②:山口周『武器になる哲学』
高い代償を払って自らの意思で手にした自由でも、強烈な寂しさや責任から、ふたたび強いリーダーや指揮者を求めてしまう。
これが、いつの時代においても変わらない人間の奥底に眠る性というものなのでしょうか。

自由の副作用を理解しておく
日本では『働き方改革』や『会社に縛られない生き方』、『フリーランス独立』などという言葉が日に日に拡大し、影響力を増しています。
僕もこれに強い感銘を受けたからこそ、更なる自由を求めてプログラミング学習という選択をしました。
しかし、実際に自分の部屋から稼げるようになってきた今、ひとりきりで作業をこなし勉強を続ける日々に、ときどき寂しさを感じることがあります。
『ノマド良いなぁ、羨ましい』なんて言われることも最近は増えてきましたが、実はすごく孤独を感じる瞬間もあります。
更に国境の再開は来年末、なかなか会いたい人に会えません。しかし、これが自由への対価です。
仕方なし、です。

まとめ
もちろん、コロナ禍で大変な人が大勢いるなかで、僕は恵まれているということは重々承知しています。
これから会社を始めるにあたって、毎日わくわくしているのも、勉強したいことが山ほどあるのも、変わることのない事実です。
たまーに寂しさを感じることがあり、加えて国境再開の時期が来年末になるかもということで、改めて『自由』について考えてみた、というお話でした。
今回の記事は、自分自身と会話をするように書きました。
パンデミックには必ず終わりが来ますし、どれだけ困難があっても乗り越えた者にしか見えない景色があると信じて、今日も変わらず継続していきます😌
補足、書籍の引用について
記事途中で『自由からの逃走』について記載しましたが、実はこの文は、山口周さんの著書『武器になる哲学』からの引用です。
さまざまな哲学者の言葉が、分かりやすく現代社会に当てはめて書かれている本です。何度も読み返しているくらい大好きな本です。僕のバイブルですね。
よければぜひ、みなさんも読んでみてください。自由以外についても、たくさんたくさん、人の心理を知る上で大切なことが書かれています。